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自慢をする人の心理と3つの対処法|嫌な人に出会ってしまうスピリチュアルな理由とは

心理学
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あなたの周りには、自慢ばかりする人はいますか?

あなたも、最初は「すごいですね!」と素直に思っているかもしれません。しかし、それが続くと聞いてあげる、褒めてあげる、と不均衡な状態になって、段々イライラしてきますよね

しかも、そういう人って気を使われていたり、聞いてもらっている、相手を消費していることに気付かないので、エスカレートする場合も多いです。

こちらの記事では、自慢をする人の心理やそういう人に出会う意味をスピリチュアルな観点から解説していきます。

どうしてそういう人間になるのか、また、どうしてそういう人間と関わってしまうのか、その仕組みが知りたい方は是非最後までご覧ください。

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自慢をする人の心理

自分の自慢をする人の心理は、「自分で自分を好きになれないから、他人に愛してもらおうとしている」です。

このタイプは、劣等感が強く、自分で自分のこと認めることが出来ません。自慢をする人というのは、積極的に聞いてもいないのに自分の過去の栄光やら、すごいのかすごく無いのか分からないような話をして、こちらに「すごい」と言わそうとしたり、思わせようと操作します。

これは、そうでもしなければ周りから認められることや褒められることなど絶対にない、という自信のなさと劣等感から来ています。

中には、男性や男性性が強い人たちが、自分のオスとしての魅力を意中のメスにアピールすると言う動物的な本能でやっている人もいますが、それで相手がどうにかなると思っているということは、結局本人に自信がなく、精神的に非常に幼く未熟である、ということです。

元々素晴らしい人は、黙っていたってその人の魅力は伝わりますから、周りからもそういう言葉をかけられます。「優しいね」「かわいいね」「素敵だね」「かっこいいね」「すごいね」「好き」などです。だから、わざわざ自分からアピールなんてしなくても、自然にそのまんまの自分で生きているだけで、周りに認められますし、今までもそういう人生を歩んできています。

しかし、自慢をする人は「自分はそういう人たちとは違うのだ」と思っており、ありのままの自分に自信がありません。自分で自分のすごいところをアピールしなければ、自分なんか小さくてそこに居ることすら気づいて貰えない、存在していることすら許されていないような気持ちでいるので、一生懸命自己アピールをして、自分の存在を周りに承認してもらい、その場に居る権利を得ようとするわけです。

実際にはその場にいるための承認や権利など、必要ありません。その人が普通に話し、相手の話を聞き、まともなコミュニケーションをしていれば、そんなものは誰も要求しないでしょう。むしろ、その過剰な自己承認アピールが相手を不快にさせ、自分を追い詰めていることに本人は気付いていません。中には気付いている人も居ますが、それでも居場所のなさを感じる不安が強いので、ダメだと思っていても止められないのです。

これは、先ほど出てきた劣等感とともに、自己肯定感も低いことが原因です。

劣等感は、自分が他者より劣っているという感覚
自己肯定感は、ありのままの自分で良い、と自分で自分を認め受け入れることが出来ている感覚

です。

自慢をする人は、自分は他者より劣っており、そんな自分では周りに愛されるわけがないと自分を認めることが出来ない心理を共通して持ち合わせています。

人間は、能力や魅力や精神性などには差がある場合がありますが、皆それぞれに長所があり、短所があるのです。これに例外はありません。そして、自分がある部分において他者より劣っていたとしても、自分を自分で愛する能力のある人は、それをダメなことだとは思いません。自分は自分、人は人、として分けて考えることが出来ます。だからこそ、自分のことを適切に評価できますし、他者の長所を褒めることも出来ます。

そして、それとは全然関係ない領域で、ただ「自分である」という理由で、無条件で自分を愛することが出来るのです。

しかし、自慢をする人は他者との境界が曖昧で、全てをピラミッドのような上下関係で見ます。そして、自分のことを無条件では愛せず、誰かより優れている時だけ周りに愛されると勘違いしています。

実際には、愛されるというよりは、「他者に存在を認めてもらえる」に近いです。周囲より優れていなければ、人権がないような、居場所がないような感覚を持ち合わせているのでしょう。自慢が出来ない状況の彼等は、まるで小さい子供のように縮こまり、落ち込み、まるで回りに攻撃されているかのようにオドオドしているはずです。

周りから見ると、「じゃあ、どうして自慢をするの」「それを止めさえすれば、あなたは認められる」「黙っていたらいいのに」「まずは人を認めようよ」「人の話聞こうよ」と思うことと思います。全くその通りなのですが、上記の通り、彼等の思考回路では、自慢をしなければ自分がそこにいることができず、誰にも見向きもされないと思っているので、それは絶対に無理なのです。

まるで何かの中毒者のように、自慢をせずにはいられません。なぜなら、自分を周りに認めてもらえないことは、愛されないこと=「自己の死」を意味するからです。

自慢をするようになる原因

このような幼稚で未熟な精神性は、幼少期の親との関係が原因です。

多かれ少なかれ、このタイプは親から適切な愛情を与えられていません。「言うことを聞くなら、優しくしてやる」とか「成績が良かったら、褒めてやる」などと言った条件付きの愛情を餌としてぶら下げられ、それ以外は大抵無関心か親の都合良くコントロールされ、人形のように扱われていました

これをしつけだと思っている親は多く居ますが、現代ではこれを心理的虐待と呼びます。そして、一部暴力やレイプなどの肉体的な虐待を受けていた人も居ます。これらは自分自身の許可なしに、相手に自分の領域を侵され、利用されることであり、こうした虐待を幼い頃に受けると、他者と自分との適切な境界線を引くことが出来ないため、自己と他者をはっきり分けて考えると言うことが出来なくなります。どこまでが自分の権利や責任で、どこからが相手のそれなのかが分からないのです。

例えば、常に出来のいい兄弟と比べられてきた人は、常に年齢や能力が上の他者と比較し、本人の良さを本人の基準で評価する、と言うことを教えて貰えませんでした。

心の奥底では、「身近な相手と比べられ、その人より優れていなければ愛されない」と言う思い込みが出来てしまっているために、自分の周りに自分よりすごい人間が現れると、自慢をしたりマウンティングを行ったりなどして、必死になってその相手に勝とうとします。理由は、そうすることが、親の愛を獲得する手段であり、過去自分が親の元で生き延びるための手段だったからです。

子供は、親に見捨てられる=死と言う考えを持っています。だからこそ、冗談でも親に「あんたはいらない子だ」とか「言うことを聞かないと外へ放り出すよ」などと言われると、本当に死ぬのではないかと言う恐怖を感じるのです。彼等の『愛されないこと=「自己の死」』と言う概念はここから来ています。親に愛される(生き延びる)ために、必死だった過去があるのです。

ですが、そう言う親元で育ったとしても、本人が親の生き方に違和感を感じ、「親はおかしい。自分はそう言うふうにはなりたくない」と決意して、自分の内側と向き合ってきた場合こんな人間にはなりません。自分もそのことに気づくまでは、同じように無意識に他人を傷つけてきたことを自認し、少しづつでも親とは違った「自分を無条件で愛する」と言う道を選んできました。そうすると、自分の中の傷ついた幼い人格は少しづつ成長していきます。だから完璧ではないにしろ、四六時中人に不快な態度で接する人にはならないわけです。

しかし、虐待を受けた子供の中でも、そうならない人たちは居ます。彼等は、自分の傷を他人を攻撃したり、他人から搾取することによって癒やそうとするのです。

「自分はこんなに親に酷いことをされたのだから、他の人がその悲しみを解消すべきだ!」
「親が面倒を見てくれなかった!だからこそ、他の誰かが自分の面倒を見るべきだ!」

そう言う依存的な態度で、前向きに自分と向き合うこともなく、周りに迷惑をかけて不愉快な思いを撒き散らしています。そして、彼等は、過去の傷と上手く向き合えず、精神年齢は幼いままに、その恐怖を今現在も感じています。

彼等がどうして前者のような道を辿れないのかというと、彼等が精神的に弱いからです。

自分と向き合うと言うのは、自分の中に問題があり、それを訂正する必要があることを認め、その歪みを見つめることですが、この作業は必ず痛みを伴います。少なくとも「今の自分は、自分が思い描いていた理想の姿とは違う」と言うことを真正面から受け止める必要もありますし、その後の自分の態度や振る舞いにも、変化のストレスや責任が伴います。そして、この作業はどんなに優秀なカウンセラーが手助けをしてくれたとしても、結局は自分でやらないければいけません

しかし彼等は、今現在の未熟で幼稚な自分を受け止めることが出来ず、自分の感情の責任も取れないので、そんなことは出来ません。今まで「自分は特別な人間だ」と言う風に、少なくとも他者の前では振る舞い、自分の欠点を見て見ぬ振りしてきました。

だからこそ、なんの取り柄もない普通の人たちより未熟な人間であることを認めることが出来ないわけです。さらにこれを認めてしまったら、今までの見て見ぬ振りしてきた時間が、無駄な人生であったことに向き合わなければなりません。そんなことは絶対に出来ません。

彼等は他者に自分を褒めさせ、自分の承認欲求を満たそうとします。他者に褒められることは、彼等にとって生きていていい、と言う許可の証でもあり、同時に心の栄養になります。しかし、それは海水のように飲めば飲むほど乾いていくものなのですが、自分に向き合わない彼等は気が付きません。

自慢をしてくる人の対処法

自慢をしてくる人への対象法としては、主に3つです。

見下さない

よくこういった面倒な人の対処法で、『「相手は弱いのだな、かわいそうなんだな」と思いましょう』と言うことを話したり書いたりしている人がいます。

それは間違いではないのですが、気を付けて頂きたいのが、『絶対に相手を見下さないこと』です。

私はその昔、こういうタイプの人に対して怒りを感じていました。自慢ばかりして他人の時間を奪うような人間は大嫌いでしたし、存在が大迷惑だと思っていました。だからこそ、(うわ〜迷惑な人だな…かわいそう…)と心の中で思っていました。

しかし、こういう態度は必ず言語外で相手に伝わります。そうすると、相手は何がなんでもこちら側に相手を認めさせようと躍起になり、さらにしつこく付き纏われることになります。

また、この「見下す」という考え方が、彼等の持つ他者との境界線がなく、全ての人と比較するピラミッド式の思考回路と同じであることに気付くでしょうか?

彼等には彼等の長所と欠点があり、今現在その欠点が大きくなっていたとしても、それぞれのペースで成長していて、自分とはたまたま人生の一時期で出会っただけの、別の生き物なわけです。しかし、人間は無意識下で、自分を守るために相手を利用し、見上げたり見下したりしながら自分の社会的な価値を計ろうとします。そして、こうやって見下している時には、少なからず相手が感じているような「優越感」を感じ、自分を慰めているのです。

こういった歪んだ認知の根源にあるのは、自分が相手から利用されたり、傷つけられることへの恐怖です。相手に自己承認欲求を満たすための他者として、誰かに評価されるべきではない大切な自分を利用されたり、大事な時間を聞きたくもない話を我慢して聞くという形で奪われたくないので、優越感を感じることでそれから逃げようとしているのです。

相手の劣等感やネガティブさに、影響を受けてしまっているとも言えます。

では、そう言う人たちを見たときにはどうすればいいのでしょうか?

諦める

次に大事なことは、諦めることです。

諦めるとは仏教用語であり、「つまびらかにする」「明らかにする」と言う意味があります。

要するに、現実で起こっていることを、まずなんのフィルターも感情もかけずに見つめて受け入れると言うことです。

私は昔、こういうタイプがどうして自慢ばかりするのか分からず、彼等の気持ちを考えたり、心理学の本を山ほど読んだりしました。そして、その仕組みは理解したのですが、そうすると、こんな気持ちが湧き出てきました。


「いい加減気づきなよ」
「いつまで同じこと繰り返せば気が済むわけ?」
「自分の弱さを他人に押し付けてくるな」
「いつまでも他人のせいにしているけど、今あなたに問題があるはあなたの責任」
「昔は大変だったのかもしれないけど、加害者になっている時点で全然可哀想じゃない」

これは、確かに全部その通りなのです。いつまでも幼い頃のままの依存心を引きずっていないで、途中で自分の未熟さを認めて、自分と向き合うのがまともな生き方です。

ですが、ここでこんな風に相手に影響されてしまうのは、その頃の私もまた違うレベルで未熟であったからです。「自己と他者が別の人間である」ということをはっきり意識できていれば、こんな風に他者の振る舞いで苛立ったりしないからです。そして、私が相手に思っていたことは、私が相手と同じような状態になれば自分で自分に言っていることもであります。それだけ自分に厳しい目線をむけ、世間やまともさを基準に、自分を評価しているということです。

これは、自慢ばかりする彼等が、こちらにしたことと同じだと気付けるでしょうか。彼等は、「私はこんなにすごいよ、私を認めなさいよ。」「あなたはどうなのよ?」と比較し、自分が優れていることをアピールしています。そして、自慢されている側は、別の場面で誰かより自分がとても劣っていたり、失礼なことをしてしまったりすると、(あの人はあんなにすごいのに自分は?)(自分なんか全然ダメだ)と、コテンパンに自分を見下し、罰しています。少なくとも、私はそうでした。(中には彼等と同じように、自分の自慢癖や欠点を見て見ぬ振りをしている人も居るかもしれません。)

要するに、自分で自分に、彼等がこちら側にしたことと同じようなことをしていたのです、無意識のうちに。

また、自慢ばかりされている時、彼等を自分と同じ評価基準に載せて、彼等の未熟さを裁いています。「自慢はダメだ」「未熟さが許せない」「努力していない」と相手に期待し、その期待に答えられない人たちを許せずにいます。

これは、彼等にとっては過去の親の態度と同じでしょう。彼等の親は、おそらく幼い彼等に「もう赤ん坊じゃないのだから、ちゃんとしなさい」などと、彼等が何が出来て何が出来ないのかは考えず、自分の基準で求めたはずです。

ここで幼少期の再現が、こちら側=親役、相手=子供役で行われていることが分かるでしょうか。

そして、こういう状況が起こるのは、自慢される側も「親に無条件で愛してもらえなかった傷」を持っているからです。実はこの状況は、どちらにも「現実を明らかに見る」ことで「気付き」を促されています。親役は、確かに子供役よりは成熟しているかもしれません。しかし、根っこには両方が同じ傷を持ち、今も幼少期と同じことを繰り返し、自分を傷つけています。

これが、鏡の法則と言われるものです。「自慢している人が居るから、あなたも自慢するような人格がある」ということではありません。自慢する原因となっている心の痛みが、似ていますよ。あなたもあなた自身を同じように痛めつけているのではないですか?と言う問いかけです。

そして、諦めるにおいてもう一つ大事なことは、相手の限界を認めることです。

こちらから見たら、相手は自分より歳が上かもしれません。役職が上かもしれないし、もしかしたらその相手は、あなたを養育する義務のある親かもしれません。

だからこそ、「出来ないのなら、努力してほしい」「気付いてほしい」と思い期待してしまうのかもしれません。それは、あなたの「愛してほしい」と言う心の叫びです。しかし、彼等には本当に今の現実が精一杯で、それが出来ないのです。

「インターネットで、こういう記事を読むだけでも変わる」、「本を一冊読んでみるのもいい」、そう思うかもしれませんが、彼等は精神的に本当に未熟で、頑張って今の状態です。出来ることをやろうとしない、出来ると思えない…それだけ能力不足なんです。だから、いくら周りが「今の状態は、努力が足りていないからだ」と責め立てようが、出来ないものは出来ないのです。彼等にも、いつか成長出来る時が来るかもしれませんが、少なくともそれは今ではありません。

人間には、肉体年齢と違い、魂年齢というものがあります。そう言う考え方が信じられない人は、精神年齢だと思ってください。幼い頃から、大人より頭が良く、聡明な瞳をしている子供たちがいます。彼等は勉強は苦手かもしれませんが、知恵や人間性などの本質的な分野に関しては、非常に優れた知性と精神性を持ち合わせています。

しかし、反対に左脳的な知性は高くても、精神年齢が肉体年齢に追いついていない人も大勢居ます。それになまじ実行力があれば、犯罪を起こしたり、いじめを働いたり、さらに問題は大きくなります。精神は未熟なまま、暴走してしまうのです。

「あの人たちは、なぜ自慢ばかりするのか」と問われれば、それは彼等が未熟だからです。しかし、誰しも最初は未熟です。今は彼等を裁いている人も、過去には必ず周りの人に迷惑をかけてきました。だからこそ、諦める必要があります。それは、見下すことでも憐れむことでもありません。

諦めるとは、今起こっている現実にどういう意味があるのか、自分が学べることはあるかどうか、それに気付くこと。

そして、相手の立場に立って考え、彼等にはそれが限界なのだという事実を、ただ受け入れることです。

大人は、周りにいる2歳児に「どうして毎日会社に行けないの!」と怒鳴りません。理由は、子供は子供のやるべきことや学び、課題があって、それは大人とは違うので、比べたりするまでもないからです。精神年齢は目に見えません。だからこそ、どうして?と言う思いや、尊重され、愛されなかった悲しみが、大人になっても浮かび上がってくることもあります。

しかし、悲しいですが、彼等には本当にそれが限界で、愛したくても、愛する能力がなかったのです。中には病気なんじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、先天性の障害や虐待などの影響で脳がうまく機能していない人もいます。病院に行かずとも生活していける範囲であれば、周りは違和感を感じても病院には行かないので、本人も気付きません。無いところに求めたところで、その欲求が満たされることはありません。

どちらにしろ、「自分は平均的である」と設定し、目の前の相手を自分と似た生き物とすると、相手が別の人でも、たいてい人間関係の問題が発生し、他人に不満を抱くことになるでしょう。この自己を基準に他者をジャッジする考え方が、世の中の「普通以外を許せない」支配的な考え方の一つであることに気づいてください。これをすると、枠に入れない優秀な人、未熟な人は適切に扱われないのです。

あなたが例え不満を持とうと、彼等は彼等なりのレベルで一生懸命生きる権利があります。それを周りがどうこう言う権利はありません。だからこそ、相手を自分と比べて見下すのは全くのお門違いであり、逆に可哀想だと思うのも違うのです。

あなたはあなた、私は私、それぞれがそれぞれの世界で、それぞれの人生を生き、学んでいるだけです。彼等に傷つけられた、と思う気持ちは理解できます。しかし、そうなる人にはその出来事が人生の学びとして必要だった、それだけのことで未熟な相手の責任ではありません。そして、自分がそういう扱いをされるような人間ではないのだ、と言う認識に変え、今後は自分で自分を大切にしてください。(他人にそうして欲しいと求めるのは、彼等と同じ他者承認依存です)

だからこそ、「あぁ、そうなんだ。この人はこの人の人生を精一杯生きている。そして、私も同じように一生懸命頑張っているな。」と、ただその状況を受け入れましょう。そこには、判断も、評価も、見下しも必要ありません。

そして、もしも相手より自分が理解できることが多ければ、そこで相手と比較し優越感を持つのではなく、(自分も一歩一歩頑張ってきたんだ)(昔より成長したかもしれない)(自分は人を愛し、大切にする能力があるのかも)と、過去の自分と比較し、成長している場合はそれを純粋に喜び自分を褒めてあげてください。もしくは、例えば相手がこちらのファッションに目を付け、マウンティングしたり自慢してくる場合、(自分にはファッションセンスがあるのかな?!)と自分の魅力に気づくきっかけにしましょう。

この過去の自分より成長している、そして自分を褒めることができる、自分の魅力に気づけると言う事実は、自己肯定感に繋がります。現実のネガティブに見える出来事は、全てポジティブに変換することが可能です。それには少し工夫が必要ですが、楽な方に流されず、全てを自分を愛するための出来事に変えて行きましょう。

離れる

ここまでの話を読んでも、「でも」「だって」と言いたくなる人たちが居ると思います。そう言う人は、たいてい我慢のしすぎで、彼等の自慢話に付き合いすぎている可能性があります。

自慢をする人たちは、確かに過去に辛い経験を経てきました。しかし、その後自分で自分を認めるという道を選択しなかったのも彼等の意思です。それは、彼等の人生で選べる当然の権利、自由であり、周りがどうこうできることではありません。犯罪でもない限り、誰にも他者を縛る権利はないのです。

しかし、だからと言ってその人たちが周りに振り撒く依存心や攻撃を、誰かが受けとめる必要もありません。その人はその人で勝手に自慢していればいいのですが、誰もそれを聞かねばならない義務もないわけです。

ですから、もしこういう人に出会ったら、まずは諦め、その出来事が怒った理由や必要性を受け入れましょう。そして、さっと離れるのです。

ここで「相手が可哀想だから」「付き合い」だとかなんとか理由をつけて我慢すれば、いずれ「あの人は自分を粗末に扱った」と自分の中に怒りを抱えることになります。そして、この怒りは大抵自分より幼いものや、優しい人へ押し付けることになるのです。中には病気という形にする人もいます。

彼等は彼等の人生で自分のしたいように学ぶ権利がありますが、その学びのレベルがあまりに違っている場合、友人になることは出来ません。みんな自分と同じくらいの人たちと友人になり、切磋琢磨するようになっているからです。

ですから、相手を憎んでしまう前に、サッと離れましょう。可哀想に思えるかもしれませんが、いずれ合わない人との人間関係は破綻します。上手くいかないものを上手く行かせようとすると犠牲が生まれ、その犠牲は抑制すればするほど暴力性を伴うので、我慢をしたところで良いことは一つもないのです。

自慢ばかりしている人は、いずれ未熟な自分と向き合う必要があり、そこでは必ず孤独になることでしょう。しかし、そんな時こそ生き方を変えるチャンスです。彼等がその瞬間を早く迎えるために、あなたができること、それは「自分にとって幸福感を感じられない人間関係からは、早めに離れること」です。

気を使わない

ここでさらに気をつけてほしいことが、人に気を使わないことです。

そんなこと言ったって、人に気を使わなければ、即刻人間関係は崩壊し、排除され、人権は無くなるのは…と思う人もいらっしゃるかと思いますが、「出来る限り自分の心に嘘をつかず、真実を話すこと」これはとても大切なことです。

あなたは、相手に嫌なことを言われても笑って流していませんか、自慢されて嫌な気分なのに「すごいですね」と無理矢理言っていませんか。そうして無理をして自分を押さえつけ、他人の気にいるような自分を演じていると、人は段々と自分のことが嫌いになります

相手の自尊心を傷つけないことは、人間関係を構築する上でとても大切なことです。しかし、過剰に相手に花を持たせ自分を粗末に扱うことは、優しさでもなんでもありません。

どうしてそういうことをするのかというと、人間は「嫌われたくない」「嫌な人だと思われたくない」「面倒ごとに巻き込まれたくない」などの理由から、自分の身の安全という利益を確保するために、他人をコントロールしようとするわけです。

自慢という例で言うと、「面倒くさい人とトラブルになりたくない」「嫌な人にもいい人だと思われたい」など自分の利益を得るために、相手を受け入れた振りをし、思って思いないのに相手を褒め、調子に乗らせているわけです。

これでは、相手が怒るのも当然です。

長所が見当たらず、嘘でもつかなければやっていけない人なのかもしれませんが、そうであれば、黙って相手の主張は他人のそれとして受け入れ、リアクションは避けてください。あなたからうまく誉め言葉を搾取できなければ、相手はあなたの悪口を言うかもしれませんが、それはいずれ本人に返って行きますし、つまらないので離れていくでしょう。

相手を拒絶したり、見下して自尊心を傷つけるのではなく、あくまで対等な他者として、嘘をつかず真実の言葉を口にしてください。そして、相手を愛せないのであれば、時には相手を傷付けても「あなたとは仲良く出来ない」「性格が合わない」とはっきり伝えましょう。

この時、相手がどれだけ未熟だとしても、相手の自尊心を傷付けないように思いやりのある言葉を使ってください。相手が未熟だからといって、相手に仕返しをするような言葉を使ったり、わざと傷付けても良いなどという考えは、争いの原因になります。

相手がどれだけ未熟な行動をしたとしても、それに関してあなたがどう感じたかはあなたの責任です。相手に押し付けることはせず、自分の学びとして向き合いましょう。辛く苦しいですが、必ず最後には大きな精神的な恩恵があるはずです。

嫌な人に出会ってしまう理由

嫌な人に出会ってしまうスピリチュアルな理由を、2つ解説します。

鏡の法則を知る

対処法の部分で、嫌な人に出会ってしまう理由の一つ、鏡の法則について少しお話しました。

鏡の法則とは、「人生とは自分の心を映し出す“鏡”であり、自分の世界に見えるものは全て自分の内側の投影である」と言う考え方です。

上にも書きましたが、これは深いレベルで考えるとその通りであり、しかし現実的なものの見方をすると少し違って見える場合もあります。

言葉通りに考えると、今回でいえば『自慢をする人が見える人は、同じように自慢をする人である』と言う考え方になります。「あなたも自慢をするような人間性を持ち合わせているのですよ」と言うことです。

しかし、本当にそうでしょうか?

自慢する人は、同じように自慢する人にマウンティングしにいく場合もありますが、ほとんどは自分の自慢を聞いてくれそうな人や、自分が何かしたらすごいと思える魅力がある人に話します。はっきりものを言うタイプに近寄れば、キツい意見を浴びせかけられるのが分かっているからです。

ここで、自慢をする側・される側が鏡として映しあっているのは、その振る舞いではなく意図と深層心理です。

自慢をする人がやっていることを、行動と心理に分けてみます。

自慢をする人がやっていること

行動:自分の良い所や過去の評価を相手に伝え、相手からの承認や誉め言葉を要求する

心理:自信がない→他者に褒められ認められたい(依存)→相手から誉め言葉を言わすためにコントロールする

彼等は、自分に自信が持てず、通常「自分は自分」「自分には良いところも悪いところもある」と自分で自分を受け入れるところを、相手に依存し、まずは他者に自分を受け入れてもらおうとしています。

そのために、過去の栄光だ評価だ交友関係だを相手に話し、相手の自分への評価を操作し、褒め言葉を無理矢理引き出して奪おうとしています。これは、意図的に相手の意見を変えるためにやっていることですので、モラハラ・パワハラとも構造が似ています

反して、自慢をされてしまう人がやっていることを見ていきましょう。

自慢をされる人がやっていること

行動:相手の自慢話を聞き、思ってもいないのに褒めたり受け入れたりする

心理:自信がない→他者に嫌われず受け入れられたい(依存)→問題を起こさない、相手から嫌な人だと思われないために、わざと褒め相手をコントロールする

本人としては、侵略されている、無理矢理強要され、言葉や態度を奪われていると思っているかもしれませんし、実際その通りではあるのですが、動物は皆、境界線を犯された時は「怒り」を持って相手に対抗します。それをしないのは、自慢をされてしまう人が深いところで、その侵略に合意し、相手からメリットを受け取っていると言うことです。

根にあるのは、やはり自信がなさです。自信がある人は、自分の判断に自信があるので、はっきりと「それはおかしい」と相手に伝えることができます。もしもこの判断が間違っていたとして、「自分がいやな気持ちになった」ことがはっきり分かっているので、自分の感情を害した人間に抵抗することができます。

しかし、幼少期に親に適切な人間関係と境界線を教えてもらえなかった人は、これがよくわかりません。(今のは怒って良いのか?)(ムカついたけど、自分がおかしいのではないだろうか?)そう思って、流してしまうのです。これが相手には、「合意」、「受け入れ」というメッセージとして伝わります。

上記の場合、自慢をされる側も結局は「まずは自分を受け入れる前に、他人に嫌わないでいてもらいたい」という依存心を持って相手と接しており、相手の感情をコントロールしようとしているのは同じです。

そして、こうやって両方が見えないところで、自分の感情や態度に責任を持てないもの同士の依存的な関係が出来上がるのです。

根底が似ているからこそ、引き合い、悪い結びつきが生まれています。だからこそ、その連鎖を断ち切るために、まずはあなたが相手に依存し、利用するのをやめましょう

そのためには、相手の吹っ掛けてくるネガティブな心理ゲームに参加せず、フラットな心理状態を保ち、相手と関わらないことです。相手が話しても理解してもらえないようなひどい場合には、即逃げてください。そして、誰かに相談しましょう。問題が大きくなれば、助けてくれる人の数も増えます。

幼少期に心の傷がある方は、問題を起こすことや喧嘩をすることに恐怖心がある人たちがいます。それは昔育った家庭が、問題だらけなのに、さも問題がない平穏な家庭のフリをしていたからです。みんな暗黙の了解で問題がない振りをしているので、そんなことを口にすれば、親からは怒鳴られ虐められます。

その時の恐怖から、問題を問題として扱うことが出来ない人が沢山いるのですが、今はもうその家族や親に依存せずとも生きていける大人になっているのですから、恐れることはありません。あなたに嫌がらせをする人は出来事は、問題なんですよ。平穏に、平和に、みんなと仲良くできれば素晴らしいですが、それは一番大事なことではありません。

少なくとも自分だけは、自分自身を大切にし、嫌な人間や出来事から守ってあげる必要があるのです。

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また、鏡の法則ではもう一つ大切なことがあります。

自慢をするような人が現実に出てくる場合、あなたがその人と同じような振る舞いを周りにしているか、または他者に対して自慢をすることを過剰なまでに徹底して禁止している可能性があります。

前者の場合は「人の振り見て、我が振り直せ」で終わりなので、もしそうであるなら、自分の行いを見直して変えていきましょう。

後者の場合は、「自慢」を嫌うあまり、自分の自然な魅力や表現までも抑制してしまっている場合があります。

要するに、自慢して嫌な人間だと思われるのが嫌すぎて、自己表現や自分の好きなこと得意なことを相手に話して自分を理解してもらうこと、または自分の魅力を相手に伝えて相手と認め合うことまでも避けている可能性があります、と言うことです。

他者の目線を気にしすぎて、自分らしい表現が出来ないのは、過剰に相手に自己アピールをして相手から認めてもらおうとすることと同じくらいバランスの悪いことです。

そこに相手の感情をコントロールしてやろうとか、相手から特定の言葉を引き出してやろうとか意図がなければ、自分の得意なことや好きなこと、すごかったことを話すことは悪いことではなく、むしろ相手とより深くコミュニケーションをするために必要な行為です。

あまりに謙虚になりすぎ、自分を卑下していませんか?または、あなたの中にも、ひそかに常に誰かに対する競争心があるのでは無いでしょうか。精神的に幼い人というのは、得てしてこういうセンサーは誰よりも磨かれており、表には出していなくとも、人の心の底に隠されているエゴを見抜いて攻撃してきます

相手を認めることは、自分を下げることではありません。むしろ、相手を認めれば認めるほど、あなたも認められるのです。「一般的な人や、周りより自分はすごいんだ」と言う比較の方向ではなく、私もすごいけど相手もすごい。そしてその評価は、それぞれである。と言う風に考えると、もっと精神的に自由になっていきます。

心が成長していくには

あなたはこの記事を読んで、どう思いましたか?

そうだったのかー!と気づいた、そんなことは知っていると思った、あんまりよく分からなかった、のどれかでしょうか。

人間は、成長に時間が必要なことがほとんどです。例えば、あなたはこの記事を読んだだけで、全てを理解し、現実を変えることができるでしょうか。そんな人は、おそらくほんの一握り、居るか居ないかです。

何度も同じことを繰り返してしまう、どうしてこんなに変わらないんだろう、本当に自分はだめだ、そんな感情を抱きながら、暗闇の中をひとりぼっちで彷徨っている気持ちになる時もあります。

しかし、この自慢ばかりするような人も、そう言う人に腹が立つ人も、そんな自慢をついつい聞いてしまう人も、みんなそれぞれのステージで、それぞれのペースで変化しています。だからこそ、あまり焦って早く解決しなければと意気込んだり、何がなんでも問題を解決するために相手をコントロールしたりしようとせず、ちょっとずつ変化することを自分に許してあげてください。

人間、すぐに上達したことはすぐに出来なくなります。しかし、ゆっくりと毎日毎日コツコツ継続したことは、自然と自分の深い部分に根付き、2度と忘れないような自分の財産になっていることもあります。

ですから、嫌なこと、悲しいことがあっても、それは決して神様が与えた自分に対する罰ではないし、人生は苦難ばかりと言うわけでもないし、100%嫌な出来事というわけでもないのです。(もちろん内容によっては、あまりに酷なものもありますが)

イライラしている時、人はほぼ間違いなく視野が狭くなっています。その状態では、何度考えても良い考えや、新しい思考回路などは生まれてきません。

物理的にも、怒っている時に人は眉間に皺を寄せますよね眉間は第3の目があると言われている場所であり、物事の本質をみる場所です。ここが閉じていては、周りがよく見えず、新しい考え方も入ってきません。そして、笑うとこの眉間は広がります。

悩んでいるときに、悩んだ状態で解決策を導き出すことはできないのです。ですから、一旦問題から離れ、自分が笑顔になるようなことをさせてあげましょう。無理矢理ではなく、あくまで自然と、です。

それは「逃げ」や「時間とお金の無駄」に思えるかもしれませんが、そうではありません。自分に愛や優しさを与えることは、一番大事なことであり、決して無駄ではないのです。

嘘をつかなければ保てない人間関係ではなく、自分がありのままでいられるような人間関係に時間を投資してあげてください。ストレスが溜まったら、一人でカラオケに行って叫びましょう。ムカつく時は、それを笑いに変えられる相手であれば愚痴ってみてください。(それが相手を傷つける場合は、紙に書いてビリビリに破きましょう)ちょっと高いアイスを買ってみても良いかもしれません。

成果・効率主義になりすぎず、自分に優しく、甘く、緩くして、ちょっとづつ変化する自分を、暖かい目で見守ってあげてください。

そうすると、相手のことも優しい目線で見れるようになり、不快な状況からは適切に距離が取れるようになってきます。

戦後の昭和と平成では、人はちょっと頑張りすぎました。すでに、ゆる〜くのんびりありのまま、誰とも比べずにマイペースに生きられる時代がやってきています。

この記事を読んで、少しでも気づきがあれば幸いです。

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